浜野製作所の売上や年収は?下町ロケットを天皇が見学【アンビリバボー】

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こんばんは、マナウサです。

2020年5月7日(木) 19時57分より、『奇跡体験!アンビリバボー』にて東京都墨田区にある『浜野製作所』が紹介されます。

今回は『浜野製作所』について調べてみました☆彡

東京都墨田区の町工場「浜野製作所」。 いつも油にまみれて仕事をしている父を尊敬できなかった息子・慶一は、就職活動に入ったある時期に、父から飲みにいこうと誘われる。そこで、父が誇りを持って物作りしていること、父の仕事が社会を支えていることを知り、感銘を受けた慶一は会社を継ぐことを決意する。 父の計らいで他の会社での武者修行に励む慶一だったが、修行がまだ終わっていなかった7年目、父が病に倒れ、この世を去ってしまう。慶一は急きょ修行を切り上げ、2代目社長として製作所を継ぐことに。2年後には母親も他界。1人になってしまった慶一だったが、修行していた工場で苦楽をともにした後輩・金岡が手を貸してくれ、なんとかピンチを乗り越えようとしていた。 しかし、追い打ちをかけるような出来事が起きる。製作所の隣家が火事となり、製作所に火が移り、全焼してしまったのだ。 慶一は次々と襲い掛かる絶体絶命のピンチを切り抜けることができるのか!?

YAHOO TVガイドより引用

浜野製作所の売上や年収は?

浜野製作所の売上は?

2011年の時点の売上は『5億円』です。

平成5年に従業員2名、取引先4社、売上
高約 5,000 万円であったものが、23 年には従業員 34 名(17 倍)、取引先約 400 社(約 100
倍)、売上高約5億円(約 10 倍)となっている。

また、浜野製作所は様々な企業の成長を助ける為に、技術指導や資金供給を行っています。

浜野製作所の中に本社を構える企業もあり、非常に多くの研究開発型企業がついていると考えられるので、グループとしての売上はとんでもない額になると思われます。

浜野製作所の年収

年収については、過去に『リクナビネクスト』に出ていた求人情報です。

年収例 550万円/40代/経験7年目 月給45万+賞与(年間2回+決算賞与有)
420万円/30代/未経験6年目 月給35万円+賞与(年間2回+決算賞与有)
仕事の概要 ★年間休日112日 様々な部品の精密板金加工です。たった数個から数十個の依頼までさまざまです。
求める人材  学歴や経験の長さは一切不問。モノ作りを一生の仕事と決めて、あくなき技術の探求が苦ではない方

浜野製作所はリアル下町ロケット?

下町ロケット』の舞台となった『佃製作所』のように、世界に誇る技術・プロダクトを持つ中小企業に対して、事業を活性化するメディア「eiicon lab」が認定した『リアル下町ロケット』とも言える企業として、『浜野製作所』が選ばれました。

野製作所を天皇が視察に?

2018-06-15
本日(6月15日・金)、浜野製作所に天皇陛下がいらっしゃいました。

午前10時、雨の中お越しになった天皇陛下は、本社板金工場2階のGarage Sumidaにて、弊社代表 浜野及びベンチャー企業2社(WHILL、オリィ研究所)代表の会社紹介の後、プレス工場のご視察、そして弊社スタッフとご懇談をされました。

天皇陛下、
そして今回の御視察に関わられたすべての皆様。
この度は大変光栄な機会を賜り、誠にありがとうございます。

これからもスタッフ一同、多くの方々のためになるものづくりに打ち込んで参ります!!

浜野製作所公式サイトより引用

当時の天皇陛下(現、明仁上皇)が視察(行幸)に来られるなんて、日本の企業にとって最高の名誉ではないでしょうか?

浜野製作所の概要

会社概要

社 名:株式会社 浜野製作所

所 在:東京都墨田区八広4-39-7

建 物:本社板金工場 Garage Sumida (ガレージスミダ)、本社工場と併設で、第1~第3工場

設 立: 昭和53年4月

資本金: 2,000万円

代 表:浜野 慶一(代表取締役 CEO)

業務内容:各種装置・機械の設計開発、架台・筐体設計・製作、精密板金加工・レーザー加工、金属プレス金型設計・製作、金属プレス加工 切削加工・機械加工、複合加工、各種アッセンブリ加工、ラピッドマニュファクチャリング(3Dプリンター・レーザーカッター・CNC加工・UVプリント・3Dスキャン・3Dデータ作成)

 

工場らしくない工場を』という浜野慶一社長の思いにより、遊び心いっぱいに建てた本社工場は、工場の外壁は赤、黄に塗られ、カラオケボックスようだと言われています☆彡

沿革

昭和43年 6月(1968年) 浜野嘉彦が墨田区八広に浜野製作所(金属金型工場)を立上げ

平成 5年 3月(1993年) 創業者 浜野嘉彦の死去に伴い浜野慶一が代表取締役社長に就任

平成12年 6月(2000年) 本社兼工場が近隣の火災によるもらい火により全焼

平成15年 3月(2003年) 墨田区より優良工場であるフレッシュゆめ工場モデル工場の認定を受ける

平成15年 4月(2003年) 墨田区と早稲田大学との提携に伴い、当社と早稲田大学との産学連携活動スタート

平成17年 2月(2005年) 「すみだが元気になるものづくり企業大賞」受賞

平成19年 2月(2007年) じょうとうIT経営大賞 優秀賞受賞

平成19年 5月(2007年) 『レーザー加工作品コンテスト』第2位受賞

平成19年10月(2007年) 東京商工会議所主催の第5回「勇気ある経営大賞」で優秀賞受賞

平成20年 2月(2008年) 経済産業省主催「中小企業IT経営力大賞」で、IT経営実践認定企業に

平成20年11月(2008年) 東京都中小企業ものづくり人材育成大賞奨励賞受賞

平成23年8月(2011年) 東日本大震災・復興・復旧 経済産業大臣表彰

平成23年10月(2011年) 東京都経営革新計画奨励賞 受賞

平成24年1月(2012年) 深海探査艇「江戸っ子1号」プロジェクト調印式

平成24年3月(2012年) 東京東信用金庫協会 平成23年度優良企業表彰・審査員特別賞受賞

平成26年3月(2014年) 「第43回日本産業技術大賞」で「江戸っ子1号」が審査委員会特別賞受賞

平成28年9月(2016年) 「江戸っ子1号ビジネスモデル」グッドデザイン賞受賞

平成29年3月(2017年) 文部科学省主催「平成28年度青少年の体験活動推進企業表彰」で審査委員会特別賞を受賞

平成30年1月(2018年) 経済産業大臣賞 (「ものづくり+(プラス)企業」部門 )を受賞

平成30年6月(2018年) 天皇陛下 行幸

 

(浜野製作所公式サイトより一部抜粋)

 

とんでもない数の、輝かしい受賞歴がありますね!(*_*)

代表取締役CEO浜野慶一のプロフィール

名 前:浜野慶一(はまの けいいち)

出身地:東京都墨田区

所在地:神奈川県横浜市

誕生日:1962年

高 校:東海大学 高輪台高等学校 卒業

大 学:東海大学 政治経済学部 経営学科 卒業

経 歴

東京都墨田区に長男として生まれる。

自宅は『浜野製作所』工場の上にあり、小さな頃から両親が働く姿を間近に見てきたが、両親が資金繰り悩む姿・経営方針を巡って喧嘩する姿も何度も見て育ち、『家業を継ごう』という気持ちは全くなかった。

大学4年の頃には別業種?の企業から内定をもらっていたが、ある日父から『飲みに行こう』と誘われる。

父は職人かたぎで寡黙な人だったが、それでも熱心に仕事の事、町工場での仕事がどれだけ誇り高いものなのかを語ってくれた。

その時、『それだけ素敵な仕事ならば、誰かがこの仕事を引き継ぐ必要がある!』と考えるようになり、実家の会社を継ぐ決意をする。

大学卒業後、『浜野製作所』と付き合いのあった板橋区の精密板金加工メーカーに就職し、実家の会社を継ぐ為の修行に励むも、父が他界

その為、急遽実家に戻り、母を師匠に教えを請いながら仕事に励むも、3年後には母も他界。

引き継いだ時に浜野製作所に借金はなく、両親が亡くなる、という形で後を継ぐこととなる。

 

浜野製作所の企業理念

『おもてなしの心』を常に持って、お客様・スタッフ・地域に感謝・還元し、夢(自己実現)と希望と誇りを持った活力ある企業を目指そう!

 

私はこの会社を『命をなげうって両親が私に残してくれた宝物』だと思っている。当社の企業理念におもてなしの心とあるが、私は他人の気持ち・目線に立って考え行動出来る事だと私は定義している。私の両親は、このことを自ら体現しこの会社を私に託してくれたのだと思っている。

浜野製作所 公式サイトより引用

浜野製作所の全焼

平成12年 6月(2000年)、 本社兼工場が近隣の火災によるもらい火により全焼しました。

浜野が両親から受け継いだのは、小さく暗い工場だった。00年、その工場は隣からのもらい火で全焼した。

初夏、朝10時半ごろだった。火に気づいた浜野はあわてて逃げ、炎に包まれる工場をみた。大学を卒業するまで過ごした実家でもあった。亡き両親との思い出が灰に……。

すぐに我に返り、浜野は近くの不動産屋に飛びこんだ。そこの社長が「どこかで火事だな」と言う。「うちが燃えているんです」「えっ? おまえ、なんでここにいるんだ」「取引先に迷惑をかけられない。納入を約束した部品をつくらなくては。工場を貸してください」。そりゃ大変だ! 社長は近くに物件を見つけてくれ、大家も安く貸してくれた。

次に浜野は、工場の焼け跡から金型を運び出した。金属の板などから型をくりぬく金型は、浜野の部品づくりになくてはならない。すすだらけになった2千個以上を回収し、連夜、常務の金岡裕之(かねおか・ひろゆき)(41)とふたりで磨いた。

金岡、ゼロからの出発だ。給料が払えないかもしれない。やめていいぞ」「浜野さん、カネじゃない」。浜野は涙が止まらなかった。

2人は、ふつう1カ月はかかる部品を2週間で、といった無理な注文を受け、徹夜して納期を守った。浜野には、学生時代にバスケットで鍛えた体力があった。取引先も増え、2年後には新工場を建てていた。

世界的な経済危機で、製品が売れなくなった大手メーカーは、町工場への部品注文を減らしている。町工場はどこも、先を見通せない。でも、浜野は言う。「火事のころのつらさを思い出し、原点に返ります

朝日新聞デジタルより引用

ゼロどころか、マイナスからの出発で今の巨大企業にまで成長した裏には、浜野社長たちのとんでもない努力があったからなんですね!

浜野製作所が制作したロボットなど

深海探査艇「江戸っ子1号」 従来の探査機に比較して安価で軽量でありながら、ほぼ無音なので魚の撮影にも適しており、8000mの超深海まで調査が可能。

相手のロボットを笑いで油断させる「世界の北野アタック」と、所ジョージさんをモデルにしたウ〇コカーで番組内が盛り上がりました(笑)

ステイホームにピッタリなアイテムだと思います☆彡

日本テレビの「リアルロボットバトル2014」で準優勝したロボットの『風神』 2メートル級の巨大ロボットで、腰の左右から出ているパイプからはマシンガンのように300発の弾を発射可能。リモコン操作で繰り出すパンチの力はおよそ200kgと強力です。

町工場初の電気自動車『HOKUSAI

浜野製作所についてまとめ

浜野社長はインタビューに対し、このように述べています。

モノづくりの火を絶やさぬために、生まれた場所。

会社を始めた背景としては、日本全国からモノづくに関わる工場が姿を消していることが最大の理由です。東京都墨田区にも最盛期は10000社あったいわれゆる町工場も、今では1/5となる2000社にまで減少してしまいました。これは、モノづくりが盛んな大田区も関西の東大阪も同じです。このままモノづくりの根本を成す基盤技術がなくなっていけば、日本のモノづくりそのものが衰退してしまいます。

たとえば、浜野製作所では金属加工を行なっていますが、もしも3軒先にあるメッキ工場がなくなれば、メッキ加工の対応ができなくなってしまう。隣りのネジ工場がなくなれば、ネジもなくなってしまう。町工場では、隣りの会社との関わりがビジネスの生死を分けています。だからこそ、今ある技術を次の世代に繋げて、町工場が生き残っていくための大きな枠組みとしてガレージスミダを作り上げたのです。

リアル下町ロケット VOL.2 —スタートアップが巣立つ町工場、浜野製作所  より引用

 

日本のモノづくりに対する浜野社長の思いが非常に伝わってきますね。

今後も浜野製作所の活躍と、同じように日本を支えている企業・工場の活躍や評価向上を切に願います!

ここまで読んで頂き、ありがとうございました。(^^)

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